旧・旧長野隧道(明治期)が埋没寸前
 
平成23年10月10日(月)
 国道163号線の旧長野隧道(昭和10年)の真上に、もっと古い旧・旧長野隧道(明治18年)があります。これは、ネットでいわゆる「廃なもの」として有名な(?)もので、「旧道倶楽部」によると、「それは日本土木学会が発行した「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2000選」.このなかで「長野隧道」は国内に現存する石隧道のなかでも3番目に古いものとされていた」そうです。
 こういう光景は、国道1号線の宇津ノ谷峠で4世代そろったトンネルがあります。ここの明治時代のトンネルは、管理人が訪れた昭和58年頃は廃墟状態だったのですが、現在はハイキングコースのように整備されました。
 そういうわけで、津市民として見ておきましょうと言うことで、行ってきました。
 
案内板地図
場所は、旧長野隧道の津側入口に向かって左側(林道のちょうど反対側)に案内札がありますので、そのまま旧道に入っていきます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
旧長野トンネル(昭和)
旧長野隧道(昭和)はトンネル内から出水があるらしく、鋼鉄のフタで閉め切られ、すでにご覧のような惨めなありさまに。
でも、コンクリートで固めただけのなんの面白みもない構築物ゆえ、こんな仕打ちにあったのでしょうか。明治の旧・旧道入口は、この手前向かって左側となります。
 
 
 
 
 
 
 
標識がありますから安心です。
 
ちゃんと案内札も立っていますから、道に迷うことはありません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
歩道は確保されています。
山林地権者でしょうか。木にペイントで印がつけてあり、歩道部分以外はフェンスで仕切ってあります。
なにやらゼニカネの権益のニオイがしてイヤだったのですが、歩道はしっかりと確保されていますので、ご安心を。
 
 
 
 
 
 
 
到着です。約100m程度で到着。
遠目には想像通りの重厚な造りのようですが、ネットで出ているいつのも写真と違和感があります。
かなり埋まっているような?
 
 
 
 
 
 
 
せっかくの産業遺産なんですが。
もともと75年も放置していた物件だけあって、崩壊が進んでいたと思われますが、さらに先日の台風2連発(12号、15号)のせいか、向かって右側から土砂の大崩落があったようで、隧道断面の3割程度が埋没してしまっており、内部は逃げ場のない水のため池になってしまっていました。
 
 
 
 
 
 
 
 
埋まってしまっています。
せっかく、フェンスを目立たないようにして、昔の人々の思いを込めたデザインや技術を鑑賞できるようにしたのに、これでは台無しです。
ここの管理は、「隧道がもともと県道だったので県じゃないかな」との地元の人の談。
まさに、明治初期の産業遺産の埋没の危機です。
 
 
 
 
 
 
 
 
隧道の全体像です。
でも、明治の人々が伊賀と伊勢を結ぶ新しい道路にかける思いを「日の出」でイメージしたであろう石組みのデザインは健在でした。
上部中央にあったであろう扁額は、旧隧道(昭和)前の広場に移設してあり、今に思うと、旧旧隧道が埋没してしまうのを見越したのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
補造化
扁額の「補造化」とは、大自然が創りあげたものに、人類が手を加えて使わせてもらうことで、大自然への畏敬の念を表しているそうで、明治の昔も現代も変わらないことなのでしょうが・・・・・
 
 
 
 
 
 
 
 
 
其功以裕
二つ目の扁額は「其功以裕」ということで、おそらく、隧道の完成により地域を裕福にしようということかな。
 
この2つの扁額をあわせて考えると、「徒歩で越えるしかなかった険しい長野峠に、トンネルを掘削することによって民の生活を裕にしよう」という、当時のトンネル掘削にかける意気込みが感じられます。
 
 
 
 
 
 
これが補造化です。
ふと、見上げると隧道の真上で風車が轟音を立てながら回っていました。
原子力発電所の威力には遠く及びませんが、現代の「補造化」「其功以裕」とは、こういうことなのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
追記1:
津市側入口が埋没したのは、どうやらこの風力発電施設への取り付け道路の法面が崩壊したためのようです。(http://netishim.seesaa.net/article/183093914.html)これでは、「補造化」「其功以裕」も本末転倒です。大自然にテキトーに手を加えて「補造化」とは片腹痛し。物質的に裕になっても、先人の功績を手抜き工事で破壊してなにが「其功以裕」でしょう。原因者が早急に復旧されたし。(>_<)
 
 
 
追記2:
平成28年4月29日に再訪しました。
明治トンネルトンネルへの遊歩道は、以前より荒れており、斜面が崩落したのか細くなっていましたが、トンネルまでは問題なくたどり着くことができました。
 
管理不十分の遺跡だけに、大山田側のように埋没と崩落が進んでいるものと思っていましたが、意外にもトンネル入り口を埋めていた土砂がキレイに撤去されており、前回の写真と比べると、その深さは1m以上に及んでいたことがわかりました。
 
 
 
管路トンネルや斜面からの湧水が排水がされるように水路が敷設され、また土砂崩れの原因の風力発電施設方面からも管路が敷設され、昭和トンネル方面へ排水されていました。
これで、一定の保存対策がなされたわけですが、トンネル両側の斜面はいまにも崩落しそうな様子であり、今後も保存できるかは予断を許さないようです。
明治初期の人々の自然への畏敬と地域発展への情熱を体現した貴重な産業遺跡です。大山田側の発掘と、昭和トンネルとともに保存と遊歩道の整備をお願いしたいですね。